北京で唯一の中国人と日本人を対象にした漫画サークル「北京漫画研究会」を主催している佐々木ディエゴ剛実さん。現在、対外経済貿易大学に通う3年生だ。中国でも特に「80後」、「90後」と言われる10代から30代までの若い層に圧倒的な人気を誇る日本アニメだが、佐々木さんにこのサークルを立ち上げた経緯や中国のアニメ事情などについて伺った。
■日本人だらけの上海での高校生活 ぬるかった環境を反省
――――― もともと中国に来ることになったのはどういう経緯からですか?
中国に初めて来たのは、中学校を卒業して、上海の高校に入学した時です。でも最初は、親にちょっとそそのかされたという感じで。(笑)
中学3年で進学先を決めるとき、今思うと中3の考えなので多少甘いのですが、何か手に職をつけたいと思っていました。例えば、料理人だったら、一般的には高校卒業後に専門学校に通って、そこからだいたい20歳頃からのスタートですよね。それをもし高校へ行かずに、15歳ぐらいから始めれば、すごく特別な才能がなくても、先に5年間スタートした分、そういった人たちに勝てて、一流になれるんじゃないかと思ってたんです。
それもあってあまり進学を考えていなかったんですが、父親から上海に外国語大学附属学校があるんだけど、上海は今後もさらに経済が発展していく可能性が高いので、中国語を勉強していて損はないんじゃないかと勧められ、じゃ行こうかと決心しました。
―――――高校から中国に行くことに戸惑いはなかったんですか?
外国だから何か特別だとか思ってなかったですし、特に悪いイメージはなかったです。僕はハーフで母親がブラジル人ですし、外国人には慣れていることもあり、中学3年の時から外国や外国人に対する恐怖や不安感というのは全くありませんでした。
―――――実際に、来て見るとどうでしたか?どんな高校生活だったのでしょうか。
実は入学した高校は上海外交大学付属高等学校の国際部という本科とは別の枠組みの、留学生オンリーの学部だったんです。それもあって、大体、全体の8、9割ぐらいが日本人で、残りは韓国人や香港・台湾から来た人たちでした。国際部は一学年で多くて40人、少なくて10人という、かなりこじんまりとした学校で、大きな上海という街の中の非常に小さなコミュニティで過ごしていました。
しかも学校では寮の中にずっといるので、日々の生活圏も寮と学校の教室の間を行き帰りするだけという非常に限られたものでした。寮も一階から十数階まであるんですが、1フロアすべてが日本人。このように中国人と日本人を含む外国人が学校内で完全に分けられていて、自分が非常に積極的に関わろうとしない限り、中国人と交流できるシステムではありませんでした。
中国語は、最初ぐんと行って、その後横ばいでした。やはり中国人との生の交流が限られていたので後半伸びなかったですね。学校の授業はすごく簡単で、高校の卒業資格は旧HSKの3級を取ればいいというものでした。高校一年生の時にすぐに3級を取ったので、もうそれで卒業できる資格を確保してしまい、どんなに遅い人でも、2年生の後半には取ってしまうので、勉強は本当に簡単でした。高校生活は本当にぬるい環境の中で過ごしていました。